【抜き書きノート】
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より
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第7章 ほんとうの自分を見つける
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大勢の人が他人に不当に扱われていると不満を抱いている。(中略)
彼らは自分をどう考えているのか。「乏しい『小さな』私は必要を満たせないでいる」と思っている。この基本的な誤解があらゆる人間関係の機能不全のもとになる。この人たちは自分には与えるものが何もなく、人々や世界は物惜しみをして自分の必要なものを与えてくれない、と信じている。彼らの現実はすべて、自分は何者かという妄想の上に築かれている。それが状況の妨げになり、すべての人間関係を損なう。自分が考える自分に欠乏 ── お金でも、承認でも、愛でも ── という考え方にしがみつくと、いつも欠乏を経験する。すでにある自分の人生の豊かさを認めず、欠乏ばかりが目につく。すでにある自分の人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ。世界が物惜しみをして与えてくれないと思っているが、実は自分自身が物惜しみをして世界に与えないでいる。なぜ物惜しみするかと言えば、自分は小さく、何も与えるものがない、と奥深いところで信じているからだ。
・・・(第7章)
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次のことを何週間か試して、結果がどうなるかを見ていただきたい。人々が物惜しみをして与えてくれないと思っているもの ── 賛辞、感謝、援助、愛情をこめた気遣い、等々 ── を自分から他人に与えるのだ。そんな持ちあわせはない、って? あるようにふるまえばよろしい。そうすれば出てくる。そして与え始めるとまもなく、与えられるようになる。与えないものは受け取れない。出力が入力を決める。世界が物惜しみをして与えてくれないと思っているものは、あなたがすでにもっているのに出力しようとしないもの、それどころかもっていることを知らないものだ。そのなかには豊かさも含まれる。出力が入力を決定するということを、イエスはこんな力強い言葉で表現した。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は気前よく量り、押しつけ、揺すり、あふれるほどにして、あなたの膝に乗せてくれるでしょう」。
・・・(第7章)
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すべての豊かさの源泉はあなたのなかになる。あなたの一部なのだ。だが、まず外部の豊かさに目を向けて認めることから始めよう。どこを見ても充実した人生の証がある。肌に当たる日差しの温もり、花屋の店先の美しい見事な花々、みずみずしい果物の歯ざわり、あるいは天から降り注ぐ雨に濡れる楽しさ。どこへ行っても充実した人生が待っている。あなたのまわりにあるこの豊かさを認めると、あなたのなかで眠っている豊かさが目覚める。そうすればその豊かさが外に向かってあふれ出る。見知らぬ人に微笑みかけるとき、それだけでささやかなエネルギーが流れ出る。あなたは川になる。
・・・(第7章)
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自分に終始問いかけてみよう。「ここでは私に何ができるだろうか。どうすればこの人の、この状況の役に立てるだろう?」。何も所有していなくても豊かさは感じられるし、いつも豊かさを感じていると、豊かさは向こうからやってくる。豊かさはすでにもっている人にだけ訪れる。そんなのは不公平じゃないかと思われるかもしれないが、もちろんそんなことはない。これは普遍的な法則だ。豊かさも乏しさも内面的な状態で、それがあなたの現実となって現れる。イエスはこれを次のように説明した。「もっている人はさらに与えられ、もたない人はもっているものまで取り上げられる」。
・・・(第7章)
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何が起ころうと気にしない。これは何を意味するのか? 自分の内面は起こった出来事と調和している、ということだ。「何かが起こる」、それはもちろんそのときどきの状態として現れており、つねにすでに存在している。起こった何かとは中身で、いまという時 ── 時にはこれしかない ── の形だ。その何かと調和しているというのは、起こった出来事との関係に心のなかで抵抗せずにいるということである。
起こった出来事に善だの悪だのというレッテルを貼らず、ただあるがままに受け入れる。あるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか? そうではない。それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く。
・・・(第7章)
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あるレベルの意識に達していたら(本書を読んでおられれば、だいたいは達しているはずだが)、現在という瞬間とどんな関係でいたいかも決めることができるだろう。現在という瞬間を友人としたいか、敵としたいか? 現在という瞬間は人生(生命)と切り離すことができないのだから、実は人生(生命)とどんな関係でいたいかを決めることでもある。いまという瞬間を友人としたいと決めたら、まずあなたが働きかけるべきだ。それがどんな姿で現れようとも、友人らしく歓迎すること。そうすればどうなるかはすぐにわかる。人生(生命)はあなたの友人として接してくれる。人々は親切になるし、状況は都合良く展開する。一つの決断があなたの現実をまるごと変化させる。だがこの決断は何度も繰り返してしなければいけない ── それが自然な生き方になるまで。
・・・(第7章)
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「私は現在という瞬間とどんな関係にあるのだろう?」と、終始自分に問いかけることが大切だ。そしてしっかりと観察して答えを見つけなくてはいけない。私は「いま」を目的のための手段にしているのか? それとも障害として見ているのか? 敵にしてはいないか? 現在という瞬間、それは唯一あなたが手にしているもので、人生は「いま」と不可分だから、これは人生とどんな関係にあるかという問いかけなのだ。この問いは、エゴの仮面をはいで「いまに在る」状態を取り戻すのにとても役に立つ。この問いには絶対的な真実はないが(つきつめれば、私と現在の瞬間はひとつなのだから)、正しい方向を指し示してはくれる。必要がなくなるまで、何度でも問いかけてみてほしい。
・・・(第7章)
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現在という瞬間との機能不全の関係は、どうすれば克服できるのか? いちばん大事なのは、自分に、自分の思考や行動に機能不全があると見極めることだ。それを見抜くことができ、自分と「いま」との関係が機能不全だと気づけば、そのときあなたは「いまに在る」。事実を見極めることで「いまに在る」状態が立ち上がる。機能不全を見抜いた瞬間、その機能不全は解体し始める。ここに気づいたとき、そうだったのかと笑い出す人もいる。見極めることによって選択する力が生じる。「いま」にイエスと言い、友人にするという選択ができる。
・・・(第7章)
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現在という瞬間は外形的には「いま起こっていること」だ。そしていま起こっていることはつねに変化しているから、人生の日々は違うことが起こるおびただしい瞬間からできているように見える。時間は終わりのない瞬間の連続で、その瞬間には「良い」瞬間も「悪い」瞬間もあると感じるだろう。だがもっとよく観察してみると(自分の直接的な経験だけを見つめてみると)、そんなにたくさんの瞬間があるわけではないことがわかる。あるのは「この瞬間」だけだ。人生とはつねに「いま」なのである。あなたの人生のすべてはいつも「いま」展開している。過去や未来の瞬間もあなたが思い出したり予感したりするときにしか存在しないし、思い出も予想もいまこの瞬間に考えている。つまりは、いまこの瞬間しかないのだ。
・・・(第7章)
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すべては時間の影響を受けずにはいないが、しかしすべては「いま」起こる。これが時間のパラドックスだ。何を見ても ── 腐っていくリンゴを見ても、バスルームの鏡に映るあなたの顔と三十年前の写真を比較しても ── 時間という現実を思い知らされるような証拠があふれているが、しかし直接的な証拠は絶体に見つからない。時間そのものを経験することはできない。経験できるのは現実という瞬間、あるいはその瞬間に起こることだけなのだ。直接的な証拠だけを探すなら、時間はなくなり、「いま」だけが存在する。
・・・(第7章)
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誰の人生にも形のレベルでの成長や拡大を追求する時期がある。身体的な弱さや金銭的乏しさなどの限界を克服しよう、新しい知識や技能を獲得しよう、創造的な活動を通じて自分にとっても他者にとっても力強くて新しい何かをこの世界に提供しようと努力する時期だ。それは音楽や芸術作品、書物となって、あるいは提供するサービスや遂行する機能、創設したり決定的な貢献をするビジネスや組織となって現れるかもしれない。
あなたが「いまに在る」とき、関心が充分に「いま」に注がれているとき、その在り方があなたの行動に流れ込んで、変容をもたらす。そのような行為は良質で力強いだろう。あなたの行為が何かの目的の(金や名声や勝利の)ためではなく、行為そのものが目的で、そこに喜びや活気を感じているなら、あなたは「いまに在る」。もちろん、現在という瞬間と友人にならなければ、「いまに在る」ことはできない。「いまに在る」こと、これがネガティブな翳(かげ)りのない効果的な行為の基盤である。
・・・(第7章)
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形は限界を意味する。私たちが地上に生を受けたのは、その限界を経験するためばかりではなく、意識のなかで限界を乗り越えて成長するためでもある。外的なレベルで乗り越えられる限界もあるが、そのまま抱えて生きることを学ぶしかない限界も人生にはある。そのような限界は内的にしか乗り越えることができない。誰でも遅かれ早かれそのような限界にぶつかるだろう。そういう限界にぶつかると、人はエゴイスティックな反応の罠に落ちるか(これは激しい不幸を意味する)、あるがままを無条件で受け入れることで内的に乗り越えて優位に立つ。それが私たちに与えられた課題なのだ。あるがままを意識のなかで受け入れると、人生の垂直軸の次元、深さの次元が開かれる。そしてその垂直軸の次元から何か、無限の価値を持つ何か、そういうことがなければ埋もれたままだったはずの何かがこの世に現れる。厳しい限界を受け入れた人々のなかには、ヒーラーやスピリチュアルな指導者になる人もいる。また人間の苦しみを減らし、この世に創造的な贈り物をもたらすために、自分を捨てて努力する人もいる。
・・・(第7章)
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生きる喜び(真の幸福はこれだけだ)は形や所有や達成や人間や出来事を通じてもたらされはしない ── 起こる出来事を通じてもたらされることはあり得ない。その喜びは外からもたらされることは決してない。それはあなたのなかの形のない次元から、意識そのものから放出されるものであり、したがってあなたと一体だからである。
・・・(第7章)
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宇宙の ── モノと空間からなる ── 二重の現実は、あなた自身の現実でもある。分別があってバランスのとれた実りある人生は、現実をつくりあげている二つの側面 ── 形と空間 ── のあいだのダンスだ。多くの人たちは形の面に、知覚や思考や感情に自分を同一化しているので、大切な残りの半分が隠されて欠け落ちたままになる。形との自己同一化のために、エゴの罠から出られない。
あなたが見て、聞いて、感じて、触れて、考えることはすべて、いわば現実の半面でしかない。形だ。そちらはイエスの教えのなかでシンプルに「この世」と呼ばれているもので、残る面は「天の王国あるいは永遠の生命」と呼ばれている。
空間がすべてのモノの存在を可能にするように、また静寂がなければ音もあり得ないように、あなたも大切な本質である形のない側面なしには存在できないはずだ。この言葉がこれほど誤用されていなければ、それを「神」と言ってもいい。私は「大いなる存在(Being)」と呼びたい。「大いなる存在(Being)」は事物の存在に先行する。事物の存在とは形であり、中身であり、「起こっていること」だ。事物の存在は生命(人生)の前景で、「大いなる存在」はいわば生命(人生)の背景にあたる。
・・・(第7章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より