【 エックハルト・トール 】のオススメ書籍を「書評/レビュー」で紹介 【 エックハルト・トール 】のオススメ書籍を「書評/レビュー」で紹介

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Books : 【 エックハルト・トール 】のオススメ書籍を「書評/レビュー」で紹介


 
  • 私が過去に読んだ様々な書籍の中から、【オススメ書籍】をいくつかご紹介します。
  • 私自身の理解力の低さ・文章力の無さは棚に上げていますので、「何と拙い書評/レビューだろう」と笑われるかもしれません(涙)。
  • オマケとして、オススメ度★印...最高5個)・難易度初級...中級...上級)・抜き書きノート抜粋)を付けました。
  • 書籍タイトル&画像をクリックすると、新たにアマゾン(Amazon.co.jp)の画面が開きます。そこに、多くの読者が書いた様々な「書評/レビュー」が載っています。ぜひ、この Amazon の書評を読んでみてください。バラエティーに富んだ多様な視点が、とても参考になります。
  • 人生の先達が残した知恵と経験の数々・・・。その「入り口」をじっくりと覗いてみてください・・・。

 ◆ エックハルト・トール

エックハルト・トールの居眠り・・・

◆ エックハルト・トール(Eckhart Tolle)

 1948年ドイツ西部のリューネン(ドルトムント近郊)に生まれる。両親の離婚を経験した後、13歳で父親と共にスペインに移住する。
 19歳でイギリスに渡り、ロンドン大学(The University of London)を卒業。その後、奨学金を得てケンブリッジ大学(Cambridge University)大学院で研究員となる。

 29歳で人生を大きく変えることになる「覚醒体験(inner transformation)」を得る。
 イギリスでカウンセラーとして活動した後北米に移り、エックハルト・トールが初めて執筆した本The Power of Now(邦題:さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる)』が300万部を超えるベストセラーとなる。
 その後も、A New Earth: Awakening to Your Life's Purpose (邦題:ニュー・アース)』が500万部を超える世界的ベストセラーとなる。
 2008年に、エックハルト・トールはオプラ・ウィンフリー(注)と共にウェブ上のオンライン・セミナーを行い、北米を中心に世界中でのべ3500万人が参加・視聴した。

 2008年、エックハルト・トールはニューヨーク・タイムスから「the most popular spiritual author in the United States」と評される。

 現在はカナダのバンクーバーに在住し、特定の宗教・宗派に与(くみ)しない新しいタイプの「spiritual teacher」として、講演や執筆活動を行っている。

(注)オプラ・ウィンフリー(Oprah Gail Winfrey)は、アメリカのトーク番組史上最高と評されるTV番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』の司会者兼プロデューサー。20世紀以降のアメリカで最も富裕なアフリカ系アメリカ人であり、「世界で最も有力な女性」と称される。バラク・オバマの初期の支援者としても知られる。

 ◆ 参考リンク ⇒ 【 Eckhart Tolle TV 】

ニュー・アース - 意識が変わる 世界が変わる  ←[Amazon レビュー]


エックハルト・トール(サンマーク出版)
吉田利子(訳)
★★★★★ 【中級】
価格:¥2,310
 エックハルト・トールの3冊目の著書『 A New Earth: Awakening to Your Life's Purpose 』は2005年の出版から北米で500万部以上を売り上げ、今もなお売れ続けているベストセラーです。その邦訳である本書『ニュー・アース』の出版は2008年です。

 『本書をお読みになるうちに、あなたのなかで変化が起こるだろう。本書のいちばんの目的は(中略)意識を変化させること、つまり目覚めさせることだ。』『あなたのなかで目覚めのプロセスがすでに始まっているとしたら、本書によってそのプロセスは加速され、充実したものになるだろう。』と著者エックハルト・トールは述べています。つまり、本書『ニュー・アース』は、読者の「目覚め」に対して触媒の役割を果たすということです。

 本書は、エックハルト・トールの初めての著書『 The Power of Now(邦題:さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる)』で示されたコンセプトを、より丁寧に深く時間をかけて説明しています。本書『ニュー・アース』の前半部では、私たちの目覚めを阻害する心の「機能不全」について、そのメカニズムを詳しく解説してくれます。また後半部では、目覚めるための具体的なプロセスについて語られます。

 意味を噛みしめながら、感じ取りながら、毎日少しずつ読んでいます。本書は目で見ることのできない(形のない)「意識の変化」について書かれています。そして、エックハルト・トールの言う「進化途上の彼らの意識はまだ気づきのレベルへの量子的飛躍を遂げていない」段階である自分が読むわけですから、物語のようにスイスイと読み進むわけにはいきません。しかし、言葉にはできない「何か」を感じながら、繰り返し読んでいます。その度に、同じ箇所で「本当にそうだ!」とうなづき、更に読み流していた部分で新たに目を見開かれます。そしてもう一度初めから読み返してみると、それまで霧がかかったようにぼんやりしていた箇所が、まるでカメラのピントが急に合ったように、くっきりとした意味合いをもって目の前に現れます。さらには、それまで「分かった」つもりでいた文章がその殻を破り、新たに「実感」を伴って迫ってくるのを感じます。

 本書には、ブッダ、老子、イエスなど多くの先覚者の言葉が出てきます。更には、何と白隠禅師のエピソードまで・・・。これは、宗教・宗派・洋の東西を超えて、深い真実を希求しようとする著者エックハルト・トールの姿勢の表れです。また、宗教「組織」、宗教「団体」がこれまで重ねてきた害悪について熟知しているトールは、著者自身が組織を作ることをまったく考えていません。そのような弊害とは無縁なカタチ、個を拘束しないスタイルで真実にアプローチしようとする姿勢は、飯田史彦氏とも共通する部分です。安心して(?)読むことができます。

 今の私には、「思考と気づきの分離」が一番のポイントです。同じことを中村天風は言葉を変えて『すべてを客観的に考えるという特定意識を習性づけなさい。自分のことを第三者の立場に立って考えるように習慣づけなさいっていうんだよ。』と言っています。登る道は違っていても目指す頂(いただき)は同じ ── なのですね。

 最後に・・・本書『ニュー・アース』は、エックハルト・トールの最初の著書『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の内容をより深く説明しています。ですから、読む順序としては『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』⇒『ニュー・アース』という流れが自然なのかもしれません。


【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

第1章 私たちはいますぐ進化しなければならない
人間がある程度「いまに在る」という本質的な生き方ができるようになり、外界への静かで鋭敏な意識が芽生えると、生命の聖なる本質、つまりすべての生物、あらゆる生命体に存在する意識あるいは魂を感じ取り、それが自分自身の本質でもあると気づいて愛するようになる。だがそれまでは、たいていは外形的な姿ばかりを見て、内なる本質になかなか気づかない。自分自身の本質がわからず、肉体的、心理的な形が自分であると信じ込む。 ・・・(第1章)
花や結晶や小鳥の名称を意識せずに虚心に見つめ、思いを寄せると、形のないものへの窓口が見えてくる。ほんのわずかな隙間ながら、魂(スピリット)の領域に通じる内なる道が開けるのだ。だからこの三つの「悟りに達した」生命体は、古代から人類の意識の進化のなかで非常に重要な役割を演じてきた。たとえば、なぜ蓮華の珠(たま)が仏教の中心的象徴になったのか、なぜキリスト教では白い小鳩が精霊を表すのか。これらは人類に運命づけられた地球的意識のさらに奥深い変化への土台を準備してきたのである。その変化こそ、いま私たちが目の当たりにしようとしているスピリチュアルな目覚めなのだ。 ・・・(第1章)
目覚めに不可欠なのは目覚めていない自分を自覚すること、エゴイスティックに考え、話し、行動する自分と、そういう目覚めていない状態を持続させている、人類に刷り込まれた思考プロセスを認識することである。だから本書ではまずエゴの主な側面に目を向け、それが個人や集団でどう働いているかを考える。これには二つの重要な理由がある。
 第一の理由は、エゴが働く基本的な仕組みを知らなければエゴを認識できず、そのためにだまされっぱなしで何度でもエゴを否認することになるからだ。つまりあなたは支配され、操られ続ける。
 第二の理由は、認識そのものが目覚めの一つの方法だからである。自分のなかの無意識を認識するとき、認識を可能にするのは意識の覚醒(かくせい)、つまり目覚めである。エゴと闘っても勝ち目はない。闇と闘えないのと同じである。必要なのは意識という光のみである。そして、その光はあなたなのだ。 ・・・(第1章)
変化は人々の心や思考よりも深いところで起こっている。それどころか新しい意識の核心は思考の枠を超えることにある。思考よりも高い場所に上がり、思考よりもはるかに広い次元が自分自身のなかにあることに気づく新たな能力だ。そのとき人は自分のアイデンティティを、自分が何者であるかの根拠を、今まで自分自身と同一視していた絶え間ない思考の流れには求めなくなる。「自分の頭のなかの声」が実は自分ではないと気づくと、すばらしい開放感を味わう。では自分とは何なのか? 自分とは、思考する自分を見ている者だ。思考よりも前にある気づきであり、思考が ── あるいは感情や知覚が ── 展開する場である。 ・・・(第1章)
人間の心の構造が変化しなければ、私たちはいつまでも基本的に同じ世界を、同じ悪を、同じ機能不全を繰り返し創造し続けるだろう。・・・(第1章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

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【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

第2章 エゴという間違った自己のメカニズム
言葉は発音されても、あるいは声にならず思考に留(とど)まっても、ほとんど催眠術のような力を及ぼす。言葉の前で人は簡単にわれを失い、何かに言葉を貼りつけたとたんに、まるで催眠術にかかったように、それが何であるかを知ったと思い込む。ところが実際には、対象が何であるかなどわかっていない。ただ、謎にラベルを貼っただけだ。・・・(第2章)
言葉やラベルを貼りつけないで世界をありのままに見れば、はるか昔に人類が思考を使うのではなく思考に縛られたときに失った奇跡のような畏敬の念が甦(よみがえ)る。(中略)最大の奇跡は自己の本質を経験できることだ。その本質は言葉や思考や知的なラベルやイメージに先行する。それを経験するためには、「自分(I)」という意識、「在る(Beingness)」という意識を、自分と混同されているすべて、自分を同一化しているすべてから切り離さなくてはならない。自分をモノや事物から切り離すこと、それが本書のテーマである。・・・(第2章)
あなたがふつうに「私(I)」と言うときに想定しているのは、ほんとうのあなたではない。とんでもない単純化によって、無限の深さをもったあなたが「私(I)」という音声や頭のなかの「私(I)」という概念及びその中身と混同されるからだ。・・・(第2章)
子供が育つにつれ、「私(I)」と言う思考は性別、持ち物、知覚される身体、国籍、人種、宗教、職業など、他の思考を引き寄せる。他に「私(I)」が同一視するのは ── 母親、父親、妻などの ── 役割、積み重ねられた知識や好悪などの意見、それに過去に「私に(me)」起こった出来事である(過去の出来事の記憶が「私と私の物語り(me and my story)」として自己意識を規定する)。これらは人がアイデンティティを引き出すものごとのほんの一部にすぎない。そしてどれも、自己意識という衣を着せるという事実によって危なっかしくまとめあげられた思考以上のものではない。ふつう「私、僕(I)」という場合に指しているのは、この精神的な構築物なのだ。もっとはっきり言えば、あなたが「私、僕(I)」と言ったり考えたりするとき、だいたいはその主体はあなたではなく、この精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面である。そこに気づいたあとでも、あなたはやはり「私、僕(I)」という言葉を使うだろうが、そとのきにはこの言葉はもっと深い部分から発することだろう。 ・・・(第2章)
エゴイスティックな心は完全に過去によって条件づけられている。その条件付けは二つの面から行われる。中身と構造である。(中略)
 モノとの結びつきによって自分のアイデンティティを強化したいという無意識の衝動は、エゴイスティックな心の構造にしっかりと組み込まれている。・・・(第2章)
広告業界の人間は、ほんとうは必要ないモノを売りつけるためには、それをもっていると自己イメージが、あるいは他者から見たイメージが変化すると消費者に思わせなければならないと知っている。言い換えれば、自己意識に何かを付け加えられます、ということだ。たとえばこの製品を使っているとひときわ目立ちます、だからもっとあなたらしくなれますよ、と言う。あるいは製品から有名人を、それとも若くて無力的で幸せそうな人間を連想するように仕向ける。(中略)このとき無言のうちに想定されているのは、この製品を買えば不思議な作用が働いてあなたは彼らのようになれる、もしくは彼らのイメージとそっくりになれる、ということだ。だから多くの場合、人は製品を買うのではなくて「アイデンティティの強化」を買う。 ・・・(第2章)
いわゆる消費社会が成り立つのは、人がモノに自分自身を見出そうとする努力がどうしてもうまくいかないからである。エゴの満足は長続きしないから、さらに多くを求めて買い続け、消費し続けなければならない。・・・(第2章)
多くの人々はモノに対する脅迫的な先入観に生活の大部分を支配されている。だからモノの増殖が現代の病弊の一つになる。自分を生き生きした生命体として感じられなくなると、人はモノで人生を満たそうとする。スピリチュアルな実践として自分を振り返り、モノの世界との関係、とくに「私の(my)」という言葉を付されるモノとの関係を見直してみることをお勧めする。たとえば自尊心が所有物と結びついているかどうかを判断するには、注意深くて正直でなければならない。あるモノをもっているというだけで、なんとなく自分が重要人物だとか優れた人間だと感じないか? 他人の目や他人の目を通じて自分自身に映る自分の価値を引き上げるために、さりげなく自分の所有物をほのめかしたり、見せびらかしたりはしないか? 誰かがあなたより多くもっているとき、あるいは大事なものを無くしたとき、恨みや怒りを感じ、自分が小さくなったように感じることはないか? ・・・(第2章)
エゴが求め執着するのは、エゴが感じることができない『大いなる存在』の代用品です。モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、そえはエゴだと気づかなくてはいけません。それにほんとうはモノにではなく、モノに込められた『私(I)』『私の(my)』『私のもの(mine)』という思考に執着しているのです。喪失を完全に受け入れたとき、あなたはエゴを乗り越え、あなたという存在が、『私は在る』ということが、つまり意識そのものが現れるのです。・・・(第2章)
わかっていることが一つある。人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。いまの経験が自分に必要だとどうしてわかるのか? それは現にこの瞬間に体験しているからだ。・・・(第2章)
モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか? そんなことは試みないほうがいい。モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。それまでは、自分はモノに執着していると気づくだけでいい。(中略)モノに自分を同一化していると気づけば、モノへの同一化は完全ではなくなる。「執着に気づいている、その気づきが私である」。それが意識の変容の第一歩だ。・・・(第2章)
「私に(me)」「私のもの(mine)」「もっと(more than)」「欲しい(I want)」「必要だ(I need)」「どうしても手に入れる(I must have)」「まだ足りない(not enough)」というような思考の形は、エゴの内容ではなくて構造に付随する。エゴの内容、同一化の対象は変わっていくだろう。自分自身のなかにあるこの思考の形に気づかない限り、それらが無意識に留まっている限り、あなたはエゴの言葉を信じてしまう。無意識の思考を行動化し、見つからないものを求め続ける運命から逃れられない。なぜならこのような思考の形が作用している限り、どんな所有物にも場所にも人にも条件にも満足できるはずがないからだ。エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。何をもっていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、探し求めずにはいられない。・・・(第2章)
内なる身体への気づきになれていないなら、しばらく目をつぶって自分の両手のなかに生命感を感じられるかどうか試してみるといい。そのときは、心に聞いてはいけない。心は「何も感じない」と答えるだろう。さらには「もっとおもしろいことを考えたらどうだい」と言うかもしれない。だから心に尋ねる代わりに、じかに両手を感じる。つまり両手のなかのかすかな生命感を感じるのである。生命感はそこにある。それに気づくには、関心を向けさえすればいい。最初はかすかなちりちりした感触かもしれないが、やがてエネルギーあるいは生命感を感じることができる。しばらく両手に関心を集中していると、その生命感は強くなっていくだろう。人によっては目を閉じる必要もないかもしれない。この文章を読みながら、「内なる手」を感じられる人もいるだろう。次に両足に関心を移動させてしばらくそこに留め、それから両手と両足を同時に感じてみる。そのあとは身体の他の部分 ── 腿、腕、腹、胸など ── を付け加えていって、最後には内なる身体全体の生命感を感じ取る。
 この「内なる身体」は、ほんとうは身体ではなくて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ。できるだけしょっちゅう、内なる身体を感じる習慣をつけるといい。そのうち目を閉じなくても感じられるようになる。
 ところで、誰かの話を聞きながら内なる身体を感じることはできるだろうか。逆説的ながら、内なる身体を感じているときには、実は自分を身体と同一化していない。また心とも同一化していない。要するにもう自分を「形」と同一化せず、形への同一化から形のないものへの同一化に移行している。その形のないもの、それは「大いなる存在」と言ってもいい。それがあなたのアイデンティティの核心である。身体への気づきはいまこの瞬間にあなたをつなぎとめるだけでなく、エゴという牢獄からの出口でもある。さらに免疫システムも、身体の自然治癒力も強化される。
・・・(第2章)
自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ。・・・(第2章)
悲劇的な喪失にぶつかったとき、人は抵抗するか屈するしかない。(中略)屈するとは、あるがままを受け入れることだ。人生に向かって自分を開くのである。抵抗すると縮こまって、エゴの殻が固くなる。あなたは閉ざされる。抵抗しているときに(否定的な状態のときに、と言ってもいい)どんな行動を取っても、さらに外部の抵抗にあう。宇宙はあなたの味方にはならない。人生は助けてはくれない。シャッターが閉まっていたら、日光は入ってこられない。抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。そのとき行動が可能か必要であれば、あなたの行動は全体と調和したものとなり、創造的な知性と開かれた心、つまり条件づけられていない意識によって支えられるだろう。状況や人々が有利に、協力的に展開する。不思議な偶然が起こる。どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄ともに訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。それは神のもとでの安らぎである。・・・(第2章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

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【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

第3章 エゴを乗り越えるために理解すべきこと
他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。・・・(第3章)
何かに不満をもったとき、頭のなかの声を把握できるかどうか、つまりその正体に気づけるかどうか、試してごらんになるといい。それはエゴの声、条件づけられた心のパターン、思考でしかない。その声に気づけば、同時に自分はその声とは違うこと、その声に気づいているのが自分であることがわかるだろう。実際、声に気づいている、その「気づき」があなたなのだ。背景にはその気づきがあり、前景には声、思考の主がいる。この仕組みに気づけば、あなたはエゴから解放され、エゴが見えていない心から自由になれる。・・・(第3章)
思考はうまくいけば真理を指し示すが、決して真理そのものではない。だから仏教では「月をさす指は月ではない」と言う。・・・(第3章)
絶対的な「真理」はただ一つで、その他の心理はそこから派生している。その「真理」を見出したとき、あなたの行動はすべて真理に添ったものになる。(中略)その「真理」はあなた自身と切り離せない。そう、あなたが「真理」なのだ。(中略)あなたという「存在」それが「真理」だ。(中略)キリスト教神秘主義者のなかにはこれを「内なるキリスト」と呼ぶ人々がいる。仏教では仏性と言う。ヒンズー教ではアートマン(真我)。自分のなかにあるこの次元と触れ合うとき ── この触れ合いは本来の状態であって、別に奇跡的な偉業ではない ── あなたの行動も人間やモノとの関係も、あなたが自分の内奥で感じるすべての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。それが愛である。・・・(第3章)
スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え、感じている対象はつきつめてみれば自分ではないし、つねに移ろう事物のなかに自分自身を発見することはできない、とはっきり見抜くことである。・・・(第3章)
結局のところ、大切なのは次のことだけだ。人生という背景のなかでつねに「大いなる存在」という自分の本質、「私は在る(I AM)」ということを感じていられるか? もっと正確に言えば、いまこの瞬間に「「私は在る(I AM)」と感じられるか?・・・(第3章)
どんな形をとるにしても、エゴの奥には自分が考える自分のイメージ、幻の自己を強化したいという強い無意識の衝動がある。その自己イメージ、幻の自己は、思考 ── 大きな恵みであると同時に手ごわい厄介もの ── がのさばりだして、自分が「多いなる存在」「源」「神」とつながっているという、シンプルだが深い喜びを覆い隠したときに出現する。どんな行動となって現れるにせよ、エゴの隠れた動機はつねに同じだ。目立ちたい、特別でありたい、支配したい、力が欲しい、もっともっと欲しい、ということである。それにもちろん、自分は別だという感覚を感じたい。つまり対立相手、敵が必要になる。・・・(第3章)
エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。幻想は決してあなたを満足させてはくれない。ほんとうのあなたに気づくことができれば、それだけがあなたを解放してくれる。・・・(第3章)
真の人間関係には相手への開かれた明晰な関心の流れがあり、そこでは相手に何も求めてはいない。この明晰な関心が「いまに在る」ことで、すべての本物の人間関係に必須の要件である。・・・(第3章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

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【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

第4章 エゴはさまざまな顔でいつのまにか私たちのそばにいる
多くの人たちは状況に応じ、接する相手に応じて、劣等感と優越感のあいだを揺れ動く。そこであなたは次のことを心得て、自分を観察しなくてはいけない。誰かに優越感や劣等感を感じたなら、それはあなたのなかなのエゴが感じているのだ、ということだ。・・・(第4章)
あなたのなかに不幸が存在するなら、まず自分のなかの不幸を認識する必要がある。・・・(第4章)
不幸の第一原因は状況ではなく、その状況についてのあなたの思考なのだ。自分の思考をきちんと観察しよう。思考を状況と切り離そう。状況はつねに中立だし、つねにあるがままである。向こうには状況あるいは事実があり、こちらにはそれについての自分の思考がある。物語をつくりあげたりせずに、事実とともに留まってみよう。・・・(第4章)
事実と直面すると、必ず力が湧いてくる。たいだいは自分の思考が感情を生み出すということに気づこう。思考と感情のつながりを観察しよう。思考と感情になりきるよりも、それを後ろから観察して気づく存在となること。・・・(第4章)
苦しみは深みのある人間をつくる。苦しみの原因は自分への同一化だが、逆にその苦しみが形との同一化を突き崩す。苦しみの多くはエゴに起因するが、結局は苦しみがエゴを破壊する ── ただし苦しみに意識的でなければならない。・・・(第4章)
苦しみには崇高な目的が、意識を向上させてエゴを焼き尽くすという目的があるのだ。(中略)あなたが苦しみに抵抗し続ければ、その抵抗が焼き尽くすべきエゴをさらに生み出すから、苦しみのプロセスは長引く。だが、苦しみを受け入れると、意識して苦しむことによってそのプロセスは加速される。(中略)意識的な苦しみのただなかで、変容はすでに起こり始めている。苦しみの火は意識の明かりとなる。(中略)あなたは苦しみを変容させる前に、苦しみにイエスという必要がある。それが真実である。・・・(第4章)
子どもを見つめ、話を聞いてやり、触れ合い、あれこれを手伝ってやるときにはその瞬間以外は何も望まず、決して上の空にならず、穏やかに、静かに、完全にいまこのときだけを意識していること。そうすれば、「いまに在る」ことが可能になる。あなたがその瞬間に在るなら、そのとき、あなたは父親でも母親でもない。あなたは静かな気づきとなって「存在」し、その「存在」が耳を傾け、見つめ、触れ、話すだろう。あなたは行動の奥にある「存在」になる。・・・(第4章)
どんな状況でも、その役割に自分を同一化せずに、しなければならないことをする。これがこの世に生まれ出た私たちが学ぶべき人生の基本的なレッスンである。何をするにしても、役割というアイデンティティを守ったり強化したりするために、あるいは役割にはめ込むために行動するのではなく、ただ目的を達成するために行うとき、人はとても力強くなる。・・・(第4章)
役割を演じていないとは、行動に自己(エゴ)がでしゃばらないということだ。自分自身を守ろうとか強化しようという下心がない。その結果、あなたの行動ははるかに大きな力をもつ。あなたは完全に状況に焦点をあわせる。いまの状況とひとつになる。とくにこういう人間になろうとは思わない。完璧に自分自身であるとき、あなたは非常に力強く、その力は効果的だ。・・・(第4章)
人々とつきあうときには、機能や役割であるよりも、意識的に「いまに在る」場として向き合おう。・・・(第4章)
形のうえでは、あなたは誰かより劣り、誰かより優れているだろう。だがあなたの本質は誰にも劣っていないし、優れてもいない。それを認識したときに、真の自尊心と真の慎み深さが生まれる。エゴの目から見ると、自尊心と真の慎み深さは矛盾している。ほんとうは両者は同じものなのだ。・・・(第4章)
エゴは状況と状況に対する解釈および反応を区別できない。「なんてひどい天気だ」と言うあなたは、寒さや風雨その他あなたが反応した状況が「ひどい」わけではないと気づかない。ひどいと反応したのはあなたであり、あなたの内なる抵抗であって、ひどいなあという感情はその抵抗が生み出したものだ。シェークスピアの言葉を借りれば、「ものごと自体には良いも悪いもない。良いか悪いかは考え方ひとつ」なのである。・・・(第4章)
ネガティブな状態のさなかに、「いまこの瞬間、私は自分で苦しみを創り出して自分を苦しめている」と気づくことができれば、それだけで条件に限定されたエゴイスティックな状態と反応という限界を乗り越えることができる。気づきによって訪れる無限の可能性が開ける。どんな状況にも知的に対応できる可能性である。こんなのは知的ではないと気づいた瞬間に、あなたは自分の不幸から解放されて自由になる。ネガティブな状態は知的ではない。それはつねにエゴである。エゴは小賢しいかもしれないが、知的ではない。小賢しさは小さな目的を追いかける。知性はすべてが関連したもっと大きな全体像を見る。小賢しさは利己心によって動機づけられ、きわめて近視眼的だ。政治家やビジネスマンのほとんどは小賢しい。知的な人はとても少ない。小賢しさによって獲得したものは長続きせず、結局は自己破壊につながる。小賢しさは自分や人々を分断し、知性はすべてを包み込む。・・・(第4章)
いま安らぎを得るにはどうすればいいか? いまという瞬間と仲直りをすることだ。いまという瞬間は、生命というゲームが展開している場である。生命は他のどこで展開することもあり得ない。いまという瞬間と仲直りしたら何が起こるかを、自分には何ができ、どんな行動を選ぶことができるかを、それよりもあなたを通して生命がどう展開するかを見つめよう。生きる秘訣、すべての成功と幸福の秘訣は、次の言葉に要約できる。「生命とひとつになること」。生命とひとつになることは、いまという時とひとつになることだ。そのときあなたは、自分が生命を生きているのではなく、生命があなたを生きているのだと気づく。生命が踊り手で、あなたが舞踊なのだ。・・・(第4章)
何千年も人類を苦しめてきた悲惨さに終止符を打つには、まず与えられた瞬間の自分の内面の状態に自分が責任を持つことから始めなくてはならない。つまり、たったいまからである。自分自身に聞いてみよう。「いまこの瞬間、自分のなかにネガティブな状態がないか?」。それから自分の感情や思考を冷静に見つめる。先にあげた不満や苛立ちや「うんざり」した気分など、低レベルの不幸が自分の中にないかを観察しよう。とくにその不幸を正当化したり説明する思考(実はそれが不幸の原因なのだ)に気をつけて観察しよう。自分のなかにネガティブな状態があると気づいても、それは失敗ではない。それどころか成功である。そこに気づかない限り、内面の状態と同一化したままであり、それがエゴとの同一化なのだから。だが気づけば、思考や感情や自動的な反応と自分が切り離される。これを否認と混同してはいけない。否認ではなく思考や感情や自動的な反応の認識で、認識の瞬間にそれらとの同一化が解消する。あなたは自己を、自分が何者かを意識し、そこで変化が起こる。それまでのあなたは思考であり感情であり自動的な反応だった。だがいまのあなたは気づきであり、「いまに在る」意識として内面状態を観察している。・・・(第4章)
思考から気づきへの変化が起こると、エゴの小賢しさよりもはるかに偉大な知性があなたの人生に働き始める。気づきによって、感情や思考さえも個人的なものではなくなる。それが本来、個人的なものではないことがわかってくる。もうそこには自己はない。ただの人間的な感情、人間的な思考だ。あなた個人が生きてきた物語り(それは結局は一つの物語りにすぎない)、思考と感情の塊の重要性は二の次になり、意識の前面を占領することはない。もうあなたのアイデンティティの基盤ではなくなる。あなたは「いまに在る」という光になり、思考や感情よりも先行するもっと深い気づきになる。・・・(第4章)
私は教師や芸術家、看護師、医師、科学者、ソーシャルワーカー、ウェイター、ヘアドレッサー、会社のオーナー、セールスマンなど、自分探しなどしないで、その瞬間に求められることに充分に答え、賞賛すべき仕事を成し遂げている人たちに会ってきた。彼らは仕事とひとつになり、「いま」とひとつになり、ともにいる人たちや遂行している業務とひとつになっている。このような人たちの影響は、それぞれの仕事を超えてもっと遠くまで広がる。彼らと出会う人たちもエゴが軽減されるからだ。こういう人たちとの関わりでは、重いエゴを抱えた人たちでさえ緊張を解いて防備を緩め、役割を演じるのをやめる。エゴに邪魔されずに仕事をする人が大成功するのも不思議ではない。自分がしていることとひとつになれる人は、新しい地を築く。・・・(第4章)
誰かが「私」より成功したり良い成績を上げたりするのがおもしろくなくて、その人たちを助けたり情報提供するのを拒むとき、あるいは他人の足を引っ張ろうとするとき、当人は知らず知らずのうちに自分自身の仕事を邪魔している。下心があるときは別として、エゴにとって協力は無縁なのだ。エゴは自分が他者を包み込めば包み込むほどものごとが円滑に流れるし、仕事がやりやすくなることを知らない。あなたが人を助けなかったり邪魔をしたりすると、(人々と環境という形をとる)宇宙はあなたを助けてはくれない。あなたが自分を全体から切り離したからだ。エゴが無意識のうちに抱え込む「まだ充分ではない」との思いが誰かの成功に反応し、その成功は「私」から奪われたものだと感じる。他人の成功を恨む気持ちが自分の成功のチャンスを狭めていることをエゴは知らない。成功を引き寄せるためには、誰の成功であっても歓迎するべきなのに。・・・(第4章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

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【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

第5章 ペインボディ ― 私たちがひきずる過去の古い痛み
すべての生命体と同じくあなたの身体にも有機体としての身体自身の知性がある。その知性はあなたの心の言うことに反応し、あなたの思考に反応する。感情は心に対する身体の反応なのである。・・(第5章)
身体はとても知的だが、実際の状況と思考との区別をつけられない。だからすべての思考にそれが事実であるかのように反応する。ただの思考だとは気づかない。身体にとっては不安や恐れという思考は「私は危険だ」ということだから、その通りに反応する。(中略)エネルギーが湧き出るが、危険というのは頭のなかの虚構にすぎないから、溜まったエネルギーの捌け口がない。その一部は心に環流して、さらに不安な思考を生み出す。残るエネルギーは調和のとれた身体機能に介入して有害に働く。・・・(第5章)
身体は頭のなかの声が語る物語りを信じて反応する。この反応が感情である。そして今度は感情が、感情を生み出した思考にエネルギーを供給する。これが観察も検討もされない思考と感情の悪循環で、感情的な思考と感情的な物語づくりにつながる。・・・(第5章)
エゴが生み出す感情は、心が外部的な要因に自分を同一化させているから起こるのだし、もちろんその外部的な要因は不安定であてにならず、いつも変化をはらんでいる。これよりもっと深い感情は実は感情ではなく、「いまに在る」という状態だ。感情は二項対立の領域にある。「いまに在る」状態は覆い隠されることもあるが、そこには反対物はない。そして「いまに在る」状態は、愛や喜びや安らぎ(あなたの本質のさまざまな側面)として、あなたの内部から発している。・・・(第5章)
過去の人生は記憶としてあなたのなかに生き続けるが、その記憶自体は問題ではない。それどころか記憶のおかげで過去から、そして過去の過ちから学ぶことができる。記憶、つまり過去に関する思考にあなたが完全に支配され、それが重荷に変わったときに初めて記憶が問題となる。そしてあなたの自己意識の一部になる。過去に条件づけられた人格があなたの牢獄となる。記憶が自己意識の衣をまとい、あなたの物語があなたの考える「私」になる。この小さな私(little me)は幻想で、時も形もない「いまに在る」状態というあなたの真のアイデンティティを覆い隠してしまう。・・・(第5章)
あなたの物語は頭のなかの記憶だけでなく感情的な記憶、すなわちありありと甦る古い感情によっても構成されている。(中略)ほとんどの人は不必要に大量の精神的感情的荷物を一生抱えていく。彼らは不満や後悔や敵意や罪悪感で自分に小さな枠をはめてしまう。感情的な思考が自己になっているから、そのアイデンティティを強化するために古い感情にしがみつく。
 人間には古い記憶を長々とひきずる傾向があるから、ほとんどの人はエネルギーの場に古い感情的な苦痛の集積を抱えている。私はこれを「ペンボディ」と呼んでいる。・・・(第5章)
きちんと向き合い、受け入れ、そして手放すという作業がなされなかったネガティブな感情は痛みを残す。その痛みが積み重なり、身体の全細胞で活動するエネルギー場をつくりあげる。このエネルギー場を形成するのは子ども時代の痛みだけではない。青年期や成人後のつらい感情も付加されていく。その大半はエゴの声が生み出したものだ。人生のベースに間違った自己意識があると、感情的な痛みという道連れは避けがたい。
 ほとんどすべての人がもっている古くからの、しかしいまも生き生きと息づいているこの感情のエネルギー場、それがペインボディである。・・・(第5章)
ペインボディはほとんどの人間のなかに息づいている半自立的なエネルギー場で、感情からつくりあげられた生き物のようなものだ。このペインボディは狡猾な動物のような原始的知性をもっていて、その知性を主に自らが生き残るために働かせる。すべての生命体と同じく、ペインボディもときおり糧を ── 新たなエネルギーを ── 取り入れなくてはならない。ペインボディが補充する糧とは、それ自身と同種のエネルギー、いわば同じ周波数で振動しているエネルギーだ。感情的につらい体験は、何でもペインボディの糧になる。だからこそ、ペインボディはネガティブな思考や人間関係の波乱によって肥え太る。ペインボディは不幸依存症なのだ。・・・(第5章)
物質はすべて、絶え間なく振動するエネルギー場である。あなたが座っている椅子も手に持っている本も固くて動かない物質に見えるが、それはあなたに感じ取れない周波数で振動しているからだ。物質は椅子も本も木も身体も、絶え間なく振動する分子、電子、原子、量子が創り出している。私たちが物質として知覚しているのは特定の幅の周波数のエネルギーの振動だ。思考も同じくエネルギーの振動だが、周波数が物質より高いので見ることも触れることもできない。思考には思考の周波数帯があり、ネガティブな思考は低いほうの、ポジティブな思考は高いほうの周波数で振動している。ペインボディの振動の周波数はネガティブな思考の周波数と共振している。だからネガティブな思考だけが糧になる。・・・(第5章)
思考が感情を生み出すというのがふつうのパターンだが、ペインボディの場合は、少なくとも最初は逆転している。ペインボディから発した感情があなたの思考を乗っ取る。心がペインボディに乗っ取られると、思考はネガティブになる。頭のなかの声はあなた自身やあなたの人生について、他の人々について、過去や未来について、あるいは想像上の出来事について、悲しくて不安な、あるいは怒りに満ちた物語を語り出す。その声は非難し、糾弾し、不満を言い、空想する。あなたはその声の語ることに自分を完全に同一化し、その歪んだ考えを何もかも信じる。この時点で不幸への依存症が根を下ろす。・・・(第5章)
ネガティブな思考の流れは止められないわけではないが、あなたは止めたいとは思わない。ペインボディがあなたを通じて息づいていて、あなたのふりをしているからだ。ペインボディにとっては痛みが喜びなのだ。そしてあらゆるネガティブな思考をせっせと貪る。それどころか、あなたの頭のなかのいつもの声がペインボディの声に変わる。内的な対話を乗っ取ってしまう。ペインボディとあなたの思考の間で悪循環ができあがる。あらゆる考えがペインボディの糧となり、いっぽうペインボディはさらに多くの思考を生み出す。こうして数時間あるいは数日でペインボディは糧の補充を終わり、また眠りにつく。後に残されるのはへとへとになったあなたと、弱って病気にかかりやすくなった身体だ。それでは精神的な寄生体ではないかと思われるなら、あなたは正しい。その通りなのだから。・・・(第5章)
あなたのペインボディのどれくらいが国家や人種のそれであって、それくらいが個人的なものかは、実はどうでもいい。どっちにしてもいまの自分の内なる状態に責任を取れなければ、それを乗り越えることはできない。他を非難して当然の状況であっても、他を非難している限り、自分の思考によってペインボディに糧を与えることになり、エゴの罠から逃れられない。
 この地上での悪行の犯人はたった一人しかいない。人類の無意識だ。そこに気づくことこそが真のゆるしである。ゆるしによって被害者というアイデンティティは消え、真の力が生まれる。「いまに在る」という力だ。闇を非難するよりも、光をもたらすべきなのである。・・・(第5章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

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【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

第6章 「いまに在る」という意識が私たちを解放する
ペインボディからの解放は、まず自分がペインボディを「もっている」と認識することから始まる。それからもっと重要なのは、しっかりと「いまに在る」能力と観察力だ。いまの自分をきちんと観察し、ペインボディが活性化したときに重苦しいネガティブな感情が流れ込んだら、それがペインボディだ、と気づくこと。認識できれば、相手はもうあなたのふりをして暮らし、糧を吸い上げて大きくなることはできない。・・・(第6章)
ペインボディへの同一化を断ち切るのは、「いまに在る」という意識だ。あなたが自分を同一化しなければ、ペインボディはもうあなたの思考を支配できず、あなたの思考を糧にして育つことはできない。ほとんどのペインボディはすぐには消えないが、あなたが思考とペインボディのつながりを断ち切ればエネルギーを失う。あなたの思考はもう感情に曇らされることはない。現在の感覚が過去によって歪められることもなくなる。するとペインボディに閉じ込められていたエネルギーの周波数が変化し、「いまに在る」意識へと形を変える。こうしてペインボディが意識の糧となる。だからこそ、地球上の最も賢明な男女の多くは、かつて重いペインボディを抱えていた。・・・(第6章)
「悟り」とは「いまに在る」ことであり、頭のなかの声や思考プロセスから、それにその思考が身体に引き起こす感情から離れることだ。すると自分のなかに広々としたスペースが生まれる。それまでは思考や感情が騒がしくせめぎあっていた場がすっきりと開ける。 ・・・(第6章)
ペインボディだと気づいたら、そのことを受け入れなくてはいけない。受け入れずにいると、きっとまた見えなくなる。受け入れるとは、何であれその瞬間に感じていることを素直に認めることだ。それは「いまに在る」ことの一部である。いまに在ることに反論はできない。いや反論はできても、自分が苦しむだけだ。認めることを通じて、あなたは広々とした、せいせいした自分自身になれる。全体になれるのである。もう、断片ではない(エゴは自分を断片だと感じている)。あなたの本来の真のエネルギーが湧き起こる。それは神の本性と一体だ。 ・・・(第6章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

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第7章 ほんとうの自分を見つける
大勢の人が他人に不当に扱われていると不満を抱いている。(中略) 彼らは自分をどう考えているのか。「乏しい『小さな』私は必要を満たせないでいる」と思っている。この基本的な誤解があらゆる人間関係の機能不全のもとになる。この人たちは自分には与えるものが何もなく、人々や世界は物惜しみをして自分の必要なものを与えてくれない、と信じている。彼らの現実はすべて、自分は何者かという妄想の上に築かれている。それが状況の妨げになり、すべての人間関係を損なう。自分が考える自分に欠乏 ── お金でも、承認でも、愛でも ── という考え方にしがみつくと、いつも欠乏を経験する。すでにある自分の人生の豊かさを認めず、欠乏ばかりが目につく。すでにある自分の人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ。世界が物惜しみをして与えてくれないと思っているが、実は自分自身が物惜しみをして世界に与えないでいる。なぜ物惜しみするかと言えば、自分は小さく、何も与えるものがない、と奥深いところで信じているからだ。 ・・・(第7章)
次のことを何週間か試して、結果がどうなるかを見ていただきたい。人々が物惜しみをして与えてくれないと思っているもの ── 賛辞、感謝、援助、愛情をこめた気遣い、等々 ── を自分から他人に与えるのだ。そんな持ちあわせはない、って? あるようにふるまえばよろしい。そうすれば出てくる。そして与え始めるとまもなく、与えられるようになる。与えないものは受け取れない。出力が入力を決める。世界が物惜しみをして与えてくれないと思っているものは、あなたがすでにもっているのに出力しようとしないもの、それどころかもっていることを知らないものだ。そのなかには豊かさも含まれる。出力が入力を決定するということを、イエスはこんな力強い言葉で表現した。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は気前よく量り、押しつけ、揺すり、あふれるほどにして、あなたの膝に乗せてくれるでしょう」。 ・・・(第7章)
すべての豊かさの源泉はあなたのなかになる。あなたの一部なのだ。だが、まず外部の豊かさに目を向けて認めることから始めよう。どこを見ても充実した人生の証がある。肌に当たる日差しの温もり、花屋の店先の美しい見事な花々、みずみずしい果物の歯ざわり、あるいは天から降り注ぐ雨に濡れる楽しさ。どこへ行っても充実した人生が待っている。あなたのまわりにあるこの豊かさを認めると、あなたのなかで眠っている豊かさが目覚める。そうすればその豊かさが外に向かってあふれ出る。見知らぬ人に微笑みかけるとき、それだけでささやかなエネルギーが流れ出る。あなたは川になる。 ・・・(第7章)
自分に終始問いかけてみよう。「ここでは私に何ができるだろうか。どうすればこの人の、この状況の役に立てるだろう?」。何も所有していなくても豊かさは感じられるし、いつも豊かさを感じていると、豊かさは向こうからやってくる。豊かさはすでにもっている人にだけ訪れる。そんなのは不公平じゃないかと思われるかもしれないが、もちろんそんなことはない。これは普遍的な法則だ。豊かさも乏しさも内面的な状態で、それがあなたの現実となって現れる。イエスはこれを次のように説明した。「もっている人はさらに与えられ、もたない人はもっているものまで取り上げられる」。 ・・・(第7章)
何が起ころうと気にしない。これは何を意味するのか? 自分の内面は起こった出来事と調和している、ということだ。「何かが起こる」、それはもちろんそのときどきの状態として現れており、つねにすでに存在している。起こった何かとは中身で、いまという時 ── 時にはこれしかない ── の形だ。その何かと調和しているというのは、起こった出来事との関係に心のなかで抵抗せずにいるということである。起こった出来事に善だの悪だのというレッテルを貼らず、ただあるがままに受け入れる。あるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか? そうではない。それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く。 ・・・(第7章)
あるレベルの意識に達していたら(本書を読んでおられれば、だいたいは達しているはずだが)、現在という瞬間とどんな関係でいたいかも決めることができるだろう。現在という瞬間を友人としたいか、敵としたいか? 現在という瞬間は人生(生命)と切り離すことができないのだから、実は人生(生命)とどんな関係でいたいかを決めることでもある。いまという瞬間を友人としたいと決めたら、まずあなたが働きかけるべきだ。それがどんな姿で現れようとも、友人らしく歓迎すること。そうすればどうなるかはすぐにわかる。人生(生命)はあなたの友人として接してくれる。人々は親切になるし、状況は都合良く展開する。一つの決断があなたの現実をまるごと変化させる。だがこの決断は何度も繰り返してしなければいけない ── それが自然な生き方になるまで。 ・・・(第7章)
「私は現在という瞬間とどんな関係にあるのだろう?」と、終始自分に問いかけることが大切だ。そしてしっかりと観察して答えを見つけなくてはいけない。私は「いま」を目的のための手段にしているのか? それとも障害として見ているのか? 敵にしてはいないか? 現在という瞬間、それは唯一あなたが手にしているもので、人生は「いま」と不可分だから、これは人生とどんな関係にあるかという問いかけなのだ。この問いは、エゴの仮面をはいで「いまに在る」状態を取り戻すのにとても役に立つ。この問いには絶対的な真実はないが(つきつめれば、私と現在の瞬間はひとつなのだから)、正しい方向を指し示してはくれる。必要がなくなるまで、何度でも問いかけてみてほしい。 ・・・(第7章)
現在という瞬間との機能不全の関係は、どうすれば克服できるのか? いちばん大事なのは、自分に、自分の思考や行動に機能不全があると見極めることだ。それを見抜くことができ、自分と「いま」との関係が機能不全だと気づけば、そのときあなたは「いまに在る」。事実を見極めることで「いまに在る」状態が立ち上がる。機能不全を見抜いた瞬間、その機能不全は解体し始める。ここに気づいたとき、そうだったのかと笑い出す人もいる。見極めることによって選択する力が生じる。「いま」にイエスと言い、友人にするという選択ができる。 ・・・(第7章)
現在という瞬間は外形的には「いま起こっていること」だ。そしていま起こっていることはつねに変化しているから、人生の日々は違うことが起こるおびただしい瞬間からできているように見える。時間は終わりのない瞬間の連続で、その瞬間には「良い」瞬間も「悪い」瞬間もあると感じるだろう。だがもっとよく観察してみると(自分の直接的な経験だけを見つめてみると)、そんなにたくさんの瞬間があるわけではないことがわかる。あるのは「この瞬間」だけだ。人生とはつねに「いま」なのである。あなたの人生のすべてはいつも「いま」展開している。過去や未来の瞬間もあなたが思い出したり予感したりするときにしか存在しないし、思い出も予想もいまこの瞬間に考えている。つまりは、いまこの瞬間しかないのだ。 ・・・(第7章)
すべては時間の影響を受けずにはいないが、しかしすべては「いま」起こる。これが時間のパラドックスだ。何を見ても ── 腐っていくリンゴを見ても、バスルームの鏡に映るあなたの顔と三十年前の写真を比較しても ── 時間という現実を思い知らされるような証拠があふれているが、しかし直接的な証拠は絶体に見つからない。時間そのものを経験することはできない。経験できるのは現実という瞬間、あるいはその瞬間に起こることだけなのだ。直接的な証拠だけを探すなら、時間はなくなり、「いま」だけが存在する。 ・・・(第7章)
誰の人生にも形のレベルでの成長や拡大を追求する時期がある。身体的な弱さや金銭的乏しさなどの限界を克服しよう、新しい知識や技能を獲得しよう、創造的な活動を通じて自分にとっても他者にとっても力強くて新しい何かをこの世界に提供しようと努力する時期だ。それは音楽や芸術作品、書物となって、あるいは提供するサービスや遂行する機能、創設したり決定的な貢献をするビジネスや組織となって現れるかもしれない。
 あなたが「いまに在る」とき、関心が充分に「いま」に注がれているとき、その在り方があなたの行動に流れ込んで、変容をもたらす。そのような行為は良質で力強いだろう。あなたの行為が何かの目的の(金や名声や勝利の)ためではなく、行為そのものが目的で、そこに喜びや活気を感じているなら、あなたは「いまに在る」。もちろん、現在という瞬間と友人にならなければ、「いまに在る」ことはできない。「いまに在る」こと、これがネガティブな翳(かげ)りのない効果的な行為の基盤である。 ・・・(第7章)
形は限界を意味する。私たちが地上に生を受けたのは、その限界を経験するためばかりではなく、意識のなかで限界を乗り越えて成長するためでもある。外的なレベルで乗り越えられる限界もあるが、そのまま抱えて生きることを学ぶしかない限界も人生にはある。そのような限界は内的にしか乗り越えることができない。誰でも遅かれ早かれそのような限界にぶつかるだろう。そういう限界にぶつかると、人はエゴイスティックな反応の罠に落ちるか(これは激しい不幸を意味する)、あるがままを無条件で受け入れることで内的に乗り越えて優位に立つ。それが私たちに与えられた課題なのだ。あるがままを意識のなかで受け入れると、人生の垂直軸の次元、深さの次元が開かれる。そしてその垂直軸の次元から何か、無限の価値を持つ何か、そういうことがなければ埋もれたままだったはずの何かがこの世に現れる。厳しい限界を受け入れた人々のなかには、ヒーラーやスピリチュアルな指導者になる人もいる。また人間の苦しみを減らし、この世に創造的な贈り物をもたらすために、自分を捨てて努力する人もいる。 ・・・(第7章)
生きる喜び(真の幸福はこれだけだ)は形や所有や達成や人間や出来事を通じてもたらされはしない ── 起こる出来事を通じてもたらされることはあり得ない。その喜びは外からもたらされることは決してない。それはあなたのなかの形のない次元から、意識そのものから放出されるものであり、したがってあなたと一体だからである。 ・・・(第7章)
宇宙の ── モノと空間からなる ── 二重の現実は、あなた自身の現実でもある。分別があってバランスのとれた実りある人生は、現実をつくりあげている二つの側面 ── 形と空間 ── のあいだのダンスだ。多くの人たちは形の面に、知覚や思考や感情に自分を同一化しているので、大切な残りの半分が隠されて欠け落ちたままになる。形との自己同一化のために、エゴの罠から出られない。
 あなたが見て、聞いて、感じて、触れて、考えることはすべて、いわば現実の半面でしかない。形だ。そちらはイエスの教えのなかでシンプルに「この世」と呼ばれているもので、残る面は「天の王国あるいは永遠の生命」と呼ばれている。
 空間がすべてのモノの存在を可能にするように、また静寂がなければ音もあり得ないように、あなたも大切な本質である形のない側面なしには存在できないはずだ。この言葉がこれほど誤用されていなければ、それを「神」と言ってもいい。私は「大いなる存在(Being)」と呼びたい。「大いなる存在(Being)」は事物の存在に先行する。事物の存在とは形であり、中身であり、「起こっていること」だ。事物の存在は生命(人生)の前景で、「大いなる存在」はいわば生命(人生)の背景にあたる。 ・・・(第7章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

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【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

第8章 内なる空間の発見
執着しない人は人生の出来事の罠に落ちる代わりに、すべてを見通す一段高い視点に立つことができる。広大な宇宙空間に浮かぶ地球を見つめて、地球はこの上なく貴重だが、同時に一つの惑星にすぎないという逆説的な真実に気づく宇宙飛行士のようなものだ。これもまた過ぎ去るだろう、という認識は無執着につながり、無執着によって人生に新しい次元 ── 内なる空間 ── が開かれる。執着せず、判断せず、内なる抵抗をやめることで、その次元に近づくことができるのだ。 ・・・(第8章)
たいていの人の人生は物質的なモノやしなければならないこと、考えるべきことなどのものごとでいっぱいだ。(中略)その人たちの心は思考で散らかっていて、次から次に思考が押し寄せてくる。これがモノの意識の次元で、多くの人々にとっての圧倒的な現実であり、だから彼らの人生はまったくバランスを欠いている。地球に生気を取り戻し、人類が運命をまっとうするために、モノの意識に対して空間の意識でバランスをとらなくてはならない。この空間の意識の台頭、それが次の段階の人類の進化である。
 空間の意識とは、モノの意識 ── 要するに知覚、思考、感情 ── をもつと同時に、その底流に目覚めているということだ。この目覚めは、ものごと(モノ)を意識するだけでなく、自分が意識している存在であることをも意識することである。前景でものごとが起こっていても、その背景に内なる静寂があると感じ取れれば、それが空間の意識である! 誰にでもこの次元はあるが、ほとんどの人はまったく気づいていない。私はときどき、こんなふうに指摘する。「あなたは自分自身が『いまに在る』と感じていますか?」。 ・・・(第8章)
「いまに在る」とは、うちに広がりがある状態だ。「いまに在る」とき、あなたはこう問う。どうすれば自分はこの状況の、この瞬間の要求に応えられるだろう? 実は、そんなことを問う必要はない。あなたは静かで意識が研ぎ澄まされた、あるがままのいまに対して開かれた状態でいる。そのときあなたは状況に新しい次元を、空間をもち込む。そして見て、聞く。状況とひとつになる。状況に対して反応するのではなく、状況とひとつになると、解決策は自ずと現れる。実際には見て聞いているのはあなたという個人ではなく、研ぎ澄まされた静寂そのものだ。すると行動が可能であるなら、あるいは必要であるなら、あなたは行動を起こすだろう。と言うか、行動があなたを通じて起こるだろう。 ・・・(第8章)
すべての創造性は、内なる広がりから生じる。創造が行われて、何かが形になったら、そこに「私に(me)」だの「私のもの(mine)」だのが現れないように気をつけなくてはいけない。自分のしたことを自分の手柄にしようとすれば、エゴが戻ってきて、せっかくの広がりが邪魔される。 ・・・(第8章)
ほとんどの人の現実はこうだ。何かを認識するとすぐに、幻の自己であるエゴがそれに名前をつけてラベルを貼り、解釈し、何かと比較し、好悪や善悪を決める。この人たちは思考の形に、モノの意識に閉じ込められている。
 好む意識の脅迫的なラベル貼りがやまない限り、少なくともその行為に気がついて観察できるようにならない限り、スピリチュアルな目覚めはない。この休みないラベル貼りによって、エゴは観察されない心としての場所を維持している。ラベル貼りをやめるか、その行為に気づけば、内なる空間ができ、もう心に完全に占領されることはなくなる。 ・・・(第8章)
見る、聞く、味わう、触る、嗅ぐという感覚的認識の対象はもちろんモノである。これが経験だが、それでは経験している主体は誰なのか?(中略)あなただ。あなたとは何者なのか? 意識である。意識とは何か? この質問には答えられない。質問に答えた瞬間、対象をねじまげてモノ化することになる。意識とは伝統的な言葉で言えばスピリット(霊)で、言葉の通常の意味で「知る」ことはできない。探しても無益だ。「知る」ということはすべて、二元性の領域 ── 主体と客体、知るものと知られるものがある世界 ── の話だ。主体、私(I)、それなしには何も感じられることも認識されることも知られることも思考されることもない「知る者」は、永遠に知られないままに存在するしかない。「私」には形がないからだ。知ることの対象になり得るのは形だけだが、形のない次元がなければ形の次元も存在できない。形のない次元とは、世界が立ち現れては消える明るい空間である。その空間が生命であり、「私は在る」ということだ。そこには時間はない。「私は在る」も永遠で、時間を超越している。その空間で起こることは相対的であり、一時的である。喜びと苦しみ、獲得と喪失、生と死だ。 ・・・(第8章)
意識を知ることはできないが、自分自身として意識を意識することはできる。どんな状況でも、どこにいても、直接的に感じ取ることができる。いまここに在る自分、「いまに在る」自分として、たとえばこのページの言葉が認識され思考になる場、内なる空間として感じられる。それが土台としての「私は在る」ということだ。読んだり考えたりしている言葉は前景で、「私は在る」は基部、すべての経験や思考や感情を支える背景である。 ・・・(第8章)
呼吸を観察するというのは、思考から関心を引き離して空間をつくることだ。意識を喚起する方法の一つである。意識は外に現れないまま、まるごとあなたのなかにあるのだが、その意識を私たちの次元に引き出すのだ。
 呼吸を観察してみよう。呼吸を感じてみる。空気が動いて身体のなかに入っていくのを感じる。一つの呼吸を観察するだけでも、それまでは途切れない思考が続いていたところに空間ができる。意識的な一呼吸(二度三度とすればもっといいが)、これを一日のうちにできるだけ多く繰り返す。これは人生に空間をつくるすばらしい方法だ。(中略)呼吸は意図しなくても起こっている。身体のなかの知性が起こしている。あなたはそれを観察するだけ。緊張も努力もいらない。それから呼吸の短い中断に注目してみる。とくに息を吐き終わったあとに、再び吸うまでのわずかな中断を観察しよう。 ・・・(第8章)
呼吸を観察すると、いやおうなしにいまこの瞬間に「在る」ことになる ── これがすべての内なる変容の鍵なのだ。呼吸を観察するときあなたは絶対的に「いまに在る」。それに、考えながら呼吸を観察することはできないことにも気づくだろう。意識的に呼吸すると心が停止する。それは茫然自失とか半眠状態とは大違いで、完全に目覚め、意識が研ぎ澄まされている。思考より下に落ちるのではなく、思考の上に上るのである。そしてさらによく観察すると、この二つは ── 完全にいまこの瞬間に在ることと、意識を失わずに思考を停止することは ── 実は同じことだと気づくだろう。空間の意識の現れである。 ・・・(第8章)
あなたに喫煙、過食、飲酒、テレビやインターネット依存のような脅迫的な行動パターンがあるなら、次のようにしてみるといい。脅迫的な衝動が起こるのを感じたら、立ち止まって、三回、意識的に呼吸する。こうすると気づきが生じる。次にしばらくのあいだ、脅迫的な衝動そのものを自分のなかのエネルギー場として観察する。そしてなんらかの物質を摂取したい、取り入れたい、なんらかの脅迫的な行動を実行に移したいという肉体的、精神的欲求そのものを意識して感じる。それからまた数回、意識的に呼吸する。そのあとは脅迫的な衝動が ── そのときだけは ── 消えているかもしれない。あるいは衝動のほうが強くて抵抗できず、やっぱり行動に移してしまうかもしれない。その場合でも、それを問題と考えないほうがいい。さきほど説明したように、依存症を気づきの実践の一部にしてしまおう。気づきが強まっていけば依存症のパターンは弱くなり、いずれは消える。ただし、依存症の行動を(ときにはきわめて巧に)正当化しようとする考えが生じたら、すぐに気づかなくてはいけない。そんな主張をしているのは誰か、と自問しよう。依存症そのものだとわかるはずだ。それがわかって、心の観察者として「いまに在る」ことができれば、依存症にだまされて言うなりになる危険は少なくなる。 ・・・(第8章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

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第9章 人生の目的は「何をするか」ではなく「何者であるか」
あなたの内なる目的はまことにシンプルだ。目覚めること。あなたはこの目的を地上のすべての人と分かち合っている。これは人類の目的だからだ。あなたの内なる目的は全体の、宇宙の、現出しつつある知性の目的の一環で、それと不可分だ。外部的な目的は時とともに変わり得る。人によっても大きく違う。内なる目的を見出してそれと調和した生き方をすること、それが外部的な目的達成の土台だ。真の成功の基盤である。この調和がなくても、努力や苦闘、断固たる決意、この上ない勤勉、あるいは狡猾さによってある種の目標を達成することはできるだろう。だがそこに喜びはないし、結局はなんらかの形で苦しみにつながる。 ・・・(第9章)
思考に気づいていて、しかもその思考の一部ではない意識がふいに目覚める。 ・・・(第9章)
目覚めとは意識の変化であり、その変化した意識のなかで思考と気づきが分離する。(中略)目覚めると、思考に飲み込まれて自分を失うことがなくなる。思考の背後にある気づきが自分だとわかる。すると思考はあなたを振り回して指図をする利己的で自律的な活動ではなくなる。思考の代わりに気づきが主導権を握る。思考はあなたの人生の主役ではなくなり、気づきに仕えるようになる。目覚めとは、普遍的な知性と意識的につながることだ。言い換えれば「いまに在る」こと、思考なしの意識である。 ・・・(第9章)
目覚めのプロセスの初期段階にある人達の多くは、自分の外部的な目的が何なのかわからなくなる。世界を動かしているものには動かされなくなる。現代文明の狂気がはっきりと見えて、周囲から浮き上がったと感じるかもしれない。二つの世界を隔てる無人地帯にいるような気がする人もいるだろう。その人たちはもうエゴに動かされてはいないが、まだ目覚めが充分に人生に取り込まれていない。内なる目的と外部的な目的がひとつになっていないのだ。 ・・・(第9章)
どんな分野であれ「成功する」ことに意味があるのは、ほかの数千人数百万人が失敗するからでしょう。するとあなたの人生を意味あるものにするには、ほかの人たちの「失敗」が必要だってことになる。 ・・・(第9章)
大切なのは目的や行動ではなくてそのもとにある意識だということです。第一義的な目的を達成することは、新しい現実、新しい地球の基礎を築くことです。その基礎が築かれれば、あなたの目的や意図は宇宙の進化の動きとひとつになり、外部的な目的にスピリチュアルな力がみなぎるでしょう。 ・・・(第9章)
思考と気づきの分離、それが第一義的な目的の核心にあるのですが、これは時間の否定を通して起こります。もちろんここで言っているのは、時間を決めて合う約束をするとか旅行の計画を立てるというような実際的な意味での時間ではありません。そういう時計で計る時間ではなくて、心理的な時間、見つかるはずのない未来に充実した人生を求め、唯一のアクセスポイントである現在のこの瞬間を無視するという、心の奥底に巣食っている習慣のことです。 ・・・(第9章)
いましていること、いまいる場所を人生の主要な目的とみなすなら、あなたは時間を否定しているのです。これはとても大きな力ですよ。たったいましていることを第一に考えて時間を否定すること、内なる目的と外部的な目的、『在ること』と『行うこと』がつながります。時間を否定すると、エゴを否定することになるんです。何とするにしても、すばらしくうまくできます。行為そのものが関心の焦点になりますからね。そしてその行為は、意識がこの世界に入り込む通路になります。これはどういうことか。そんなに単純な行為であっても、電話帳のページをめくるだけでも、部屋を横切るだけでも、その行為に質が伴うということです。ページをめくる行為の主たる目的はページをめくること、二次的な目的は電話番号を見つけることです。部屋を横切るという行為の主たる目的は部屋の向こうへ行くこと、二次的な目的はあちらにある本を手に取ることで、本を手に取る瞬間には本を手に取ることが主たる目的になります。 ・・・(第9章)
いまこの瞬間はつねにシンプルで、その意味ではつねに小さいでしょうが、そこに偉大な力が秘められています。いまこの瞬間と自分自身を調和させたとき、そのときにだけ、その大きな力にアクセスすることができます。と言うよりも、その力のほうがあなたにアクセスし、あなたを通してこの世界にアクセスする、と言うほうが正確かもしれません。 ・・・(第9章)
内なる目的に忠実であることで、生命(人生)に忠実でありなさい。あなたが『いまに在り』、全身全霊をあげていましていることをするなら、あなたの行為にはスピリチュアルな力が働きます。最初は行為そのものに別に目立った変化はないかもしれない。ただ、やり方が変わるだけでしょう。いまや、行為の第一義的な目的はその行為に意識を込めることです。二次的な目的は、その行為を通じて達成しようとする何かです。以前の目的はつねに未来にあったのに対して、新たなもっと深い目的はいまに、時間を否定したいまにだけ見つかるのです。 ・・・(第9章)
職場やその他の場所で人と会うときには、相手に関心のすべてを注ぎなさい。あなたは個人としてそこにいるのではなく、気づきの場として、研ぎ澄まされた『いまに在る』状態として、そこにいるのです。人との関わりの本来の理由 ── モノの売り買いや情報のやり取りなど ── は、二次的なことになります。二人の人間の間に立ち上がる気づきの場、それが人との関わりの第一義的な目的になるのです。その気づきの空間が、その場の話題よりも、物理的な対象や思考の対象よりも、もっと重要になります。『人間という大いなる存在(human being)』のほうがこの世界のものごとよりも重要になるのです。だからといって、実際的なレベルでその場ですべきことを無視しろと言うのではありませんよ。それどころか『大いなる存在』の次元が認識されて、第一義的な重要性をもてば、行為はもっと容易に、もっと力強くなるでしょう。この人間同士の気づきがひとつになる場の出現、それが新しい地における人間関係の基本的な要素です。 ・・・(第9章)
二義的外部的な目的は時間の次元にありますが、主たる目的はいまと不可分で、したがって時間を否定します。この二つをどう両立させるか? 自分の人生という旅全体が結局はいまこの瞬間の一歩から成り立っていると気づくことです。つねにあるのはこの一歩だけ、だからそこにすべての関心を注ぐんです。(中略)そして目的地に着いたときに何に出会うかは、この一歩の質にかかっているんです。言い換えれば、どんな未来が開けるかは、今のあなたの意識が決めるということです。
 行為に時間を超えた『大いなる存在』という質が注入されれば、それが成功です。『大いなる存在』が行為に流れ込まない限り、あなたがいまこの瞬間にいない限り、あなたは目の前の行為にまぎれて自分を見失うでしょう。また思考のなかで、それに外部世界で起こることへの反応のなかで、自分を見失うでしょうね。 ・・・(第9章)
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

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【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

第10章 新しい地
目覚めた行動とは、外部的な目的(何をするか)と内なる目的(目覚めて目覚めたままでいること)とが調和した行動である。目覚めた行動を通じて、あなたは外へ向かう宇宙の目的とひとつになる。あなたを通じて意識がこの世界に流れ込む。あなたの思考に流れ込み、インスピレーションを与える。あなたの行動に流れ込んで、行動を導き、力を付与する。
何をするかではなくどのようにするかで、あなたが運命をまっとうしているかどうかが決まる。そしてどのようにするかを決めるのは、あなたの意識状態だ。
行動の主な目的が行動そのものになるとき、と言うか行動に流れ込む意識そのものになるとき、優先順位が逆転する。意識の流れが行動の質を決める。言い換えようか。どんな状況で何をするのであれ、最重要要素は意識の状態だ。どんな状況で何をするのかは二次的な要素にすぎない。「未来」の成功は行動が生じる意識によって左右されるし、その意識と不可分である。行動が生じるもとはエゴの反応かもしれないし、目覚めた意識による研ぎ澄まされた観察と関心かもしれない。真の成功と言える行動は条件づけられた無意識の思考であるエゴからではなく、研ぎ澄まされた観察と関心の場から生まれる。
あなたの行動には、つまりあなたを通じてこの世界に流れ込む意識のモードには三種類ある。あなたが人生(生命)を宇宙の創造的な力と調和させる三つの方法である。この三つのモードは、あなたの行動に流れ込んであなたの行動をこの世界に生じつつある目覚めた意識と結びつけるエネルギーの周波数を意味する。(中略)目覚めた行動の三つのモードとは、受け入れる、楽しむ、情熱を燃やす、の三種である。それぞれは意識の周波数が異なる。ごく単純なことからきわめて複雑なことまで、何かをするときにはつねに、三つのうちのどれかが発動しているかどうか敏感に感知しなくてはいけない。よく観察すると、受け入れるのでも、楽しむのでも、情熱を燃やすのでもない行動は、自分自身か他人を苦しめているはずだ。
受け入れるとは、たったいま、この状況のこの瞬間に自分がしなければならないことだからしよう、と思うことである。(中略)受け入れれば、安らかな気持ちで行動できる。その安らぎは微妙な振動のエネルギーとして、行動に流れ込む。表面的には受け入れるのは受身に見えるが、実際にはこの世界にまったく新しい何かをもたらす積極的で創造的な状態だ。その安らかさ、微妙な振動のエネルギーが意識であり、そのエネルギーをこの世界に流入させる方法の一つが抵抗せずに降参することだ。これは受け入れることの一つの側面である。
目的のための手段として行動するのではなく、いまこの瞬間に全身全霊を込めて行動すれば、どんな行動でも楽しむことができる。ほんとうは楽しいのは行動でなく、そこに流れ込む深い躍動する生命感で、その生命感はあなたと一体なのだ。だから行動を楽しむというのは、実は生命感のダイナミックな側面を体験することだ。だから何であれ楽しんで行動すれば、すべての創造のもとにある力と結びつくことができる。
力強く創造的に拡大する人生を実現するスピリチュアルな実践方法がある。毎日繰り返す日常活動のリストをつくってみよう。(中略)次にリストの行動をするとき、それを気づきの実践の道具にする。することに全身全霊を注ぎ、行動の奥に自分のなかの躍動的な生命感を感じ取るのだ。こうして一つ一つの行動に気づきつつやってみると、そういう状態ですることはストレスでも退屈でも苛立たしくもなく、それどころか楽しいことがわかるだろう。もっと正確に言うなら、外形的な行動が楽しいのではなく、行動に流れ込む内なる意識の次元が楽しくなる。行動の中に「大いなる存在(Being)」の喜びが発見できる。人生に生きがいがないとか、ストレスが多すぎる、退屈だと感じているなら、それはこの意識の次元を人生に持ち込んでいないからだ。まだ自分の行動に意識的になることが主たる目的になっていないのである。
情熱を燃やすとは、自分がしていることに深い喜びを感じると同時に、目指す目標やビジョンの要素が加わることを意味する。行動の喜びに目標が加わると、エネルギーの場というか振動数が変化する。喜びにある種の構造的な緊張感とでもいうような何かが加わって、情熱になる。情熱にかりたてられた創造的な活動のさなかには、何をしてもとてつもない緊張感とエネルギーが伴うだろう。あなたは自分を標的に向かって飛ぶ矢のように感じ、その行程を楽しむ。
目標はダイナミックでなければならない。活動を、それを通じて他の人々や全体と結びつく活動を、目標として目指さなくてはいけない。自分は有名は俳優だ、作家だと考えるのではなくて、自分の作品を通じて無数の人々にインスピレーションを与え、人々の人生を豊かにする、と考えるべきなのだ。自分の活動が自分自身だけでなく無数の他者の人生を豊かにし深めていることを感じよう。自分は回路で、形として現れていないあらゆる生命の源から発するエネルギーが自分を通じて流れ、すべての人々のために役立つことを感じ取ろう。
 そのためには、目標やビジョンが自分自身のなかで(心と感情のレベルで)、すでに現実になっている必要がある。情熱とは心のなかの青写真を物理的な次元に移し替える力だ。これこそが心の創造的な活用方法であり、だからこそそこでは欠落も欲望も関係ない。あなたは自分に欠けていて欲するものを表現することはできない。すでにもっているものを表現することができるだけだ。刻苦勉励とストレスによって欲望を満足させられるかもしれないが、それは新しい地におけるあり方ではない。
心の創造的な活用方法と、どうすれば意識的に形を現すことができるかについて、次のイエスの言葉は大切なことを教えている。「祈って求めるものは、何でもすでに受け取っていると信じなさい。そうすれば、その通りになる」。
「私は新しい天と新しい地を見た」と、聖書の預言者は書いた。新しい地の基礎は新しい天 ── 目覚めた意識 ── である。地 ── 外部的な現実 ── は、意識の外部への投影にすぎない。新しい天が生まれ、新しい地が実現するということは、私たちを解放してくれる未来の出来事ではない。何ものも「将来」私たちを解放してはくれない。なぜなら、私たちを解放するのは、現在のこの瞬間だけなのだから。そこに気づくこと、それが目覚めである。未来の出来事としての目覚めなど、何の意味ももたない。目覚めとは「いまに在る」状態に気づくことだからだ。だから新しい地、目覚めた意識は、実現すべき未来の状態ではない。新しい天と新しい地は、いまこの瞬間にあなたのなかに生じている。いまこの瞬間にあなたのなかに生じていないなら、それは頭のなかの思考の一つにすぎず、したがって生まれ出ることもない。イエスは弟子たちに何と言ったか? 「神の国はあなたがたのなかにある」。
イエスはこう言った。「柔和な者は幸いである。その人は地を受け継ぐから」。(中略)柔和な人とは、エゴのない人だ。自分の本質が意識であることに気づき、その本質をすべての「他者」、生きとし生けるもののなかに認める人だ。彼らは慎ましく大いなるものに身を委ね、それゆえに全体及びすべての源との一体感を覚えている。彼らは自然を含め地上の生命のすべての側面を変えようとする目覚めた意識そのものだ。地上の生命(人生)は、生命を認識し、生命と相互作用する人間の意識と不可分だからである。それが、柔和な者が地を受け継ぐということだ。
 たったいま、地上に人類の新しい種が生まれようとしている。あなたもその一人だ!
... エックハルト・トール 『ニュー・アース』 より

【目次】
第1章 私たちはいますぐ進化しなければならない
第2章 エゴという間違った自己のメカニズム
第3章 エゴを乗り越えるために理解すべきこと
第4章 エゴはさまざまな顔でいつのまにか私たちのそばにいる
第5章 ペインボディ ― 私たちがひきずる過去の古い痛み
第6章 「いまに在る」という意識が私たちを解放する
第7章 ほんとうの自分を見つける
第8章 内なる空間の発見
第9章 人生の目的は「何をするか」ではなく「何者であるか」
第10章 新しい地



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さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる  ←[Amazon レビュー]


エックハルト・トール(徳間書店)
飯田史彦(監訳)
あさりみちこ(訳)
★★★★★ 【初級】【中級】
価格:¥1,890
 原著『 The Power of Now: A Guide to Spiritual Enlightenment 』は、エックハルト・トールが最初に執筆した書籍です。1997年の出版から2009年までに、北米だけで300万部以上を売り上げるベストセラーとなり、30以上の言語に翻訳されています。邦訳『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』は2002年の出版。

 本書は、著者であるエックハルト・トールの10年以上にわたるカウンセリングやワークのなかで行われた質疑応答をもとにして、主に「Q&A」形式で綴られています。また冒頭では、エックハルト・トール自身の「覚醒体験」が語られます。

【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』 より
第1章 思考は「ほんとうの自分」ではありません
「大いなる存在」とは、死を運命づけられた無数の生命形態を超える、唯一の「不滅の生命」です。しかも、「大いなる存在」はあらゆる生命の奥深くに、目には見えず、絶対に滅びることのない本質として、宿っているのです。つまり、「大いなる存在」は、人間のもっとも深いところに「ほんとうの自分」として存在しており、わたしたちはそれに「つながる」ことができるのです。
 ただし、このことについて「頭」(脳)を使って「考えよう」とは、しないでください。「頭」で理解できることには、限界があります。あなたの「思考」がピタリと止まっている時にこそ、わたしの言葉の意味がわかるはずです。あなたが「いまに在る」時、言いかえれば、あなたが完全に、強烈に「いま」という時に集中していれば、「大いなる存在」を感じることができるでしょう。それは、人間の頭では、理解することはできません。「大いなる存在が、自分とともにある」という感覚を保ちつづけることが「さとり」なのです。 ・・・(第1章)
「大いなる存在」こそが、「人間の本質」です。わたしたちは、それをじかに感じられるのです。「わたしは、いま、ここに、こうして、存在する!」という感覚がそれです。「わたしは○○(名前、職業など)です」という呼び名を超えた、「ほんとうの自分」に気づくことなのです。「大いなる存在」という言葉の、ほんとうの意味を理解すれば、「大いなる存在」を経験する日は、もう目の前です。 ・・・(第1章)
自分の思考をコントロールできない人は(ほとんどの人がそうでしょう)、「人間はみんな、はなればなれなのだ」と信じて、人生を歩いています。これを信じている人の人生には、この信念が反映されて、問題と摩擦が、次から次へとやってくるのです。
 「さとり」とは、「すべてとひとつであり、完全である」という境地にいることです。それゆえに、「すべてとつながっていること」なのです。さらに、平和に包まれています。目に見える、「かたちある世界」はもちろん、自分の内奥にある、目には見えない「大いなる存在」と、ひとつになっていることです。
 「さとり」は、心の葛藤や、人との摩擦がなくなることだけを、意味するのではありません。さとりをひらくと、もう自分の思考に、ふりまわされなくなるのです。なんて素晴らしい自由でしょう! ・・・(第1章)
思考を客観的にながめていると、その行為をしている、「ほんとうの自分」の存在に気づきます。「ほんとうの自分」に気づくと、意識は新たなレベルに到達します。(中略)これが、無意識的な思考活動を終わらせる、第一歩なのです。思考がおしゃべりをやめると、「無心状態」が生まれます。最初のうちは、無心状態は、ほんの数秒間しかつづかないかもしれませんが、心がけ次第で、だんだんと、長くつづくようになります。無心状態の時には「心の平安」を実感するはずです。これが、ふだんは思考の雑音によってかき消されている、「大いなる存在」との一体感なのです。 ・・・(第1章)
第7章 「目に見えない世界」の入口
瞑想してみてはいかがでしょう? 長時間する必要はありません。十〜十五分くらいでいいです。まず、電話や人など、途中で邪魔が入らないよう、事前に確認します。準備ができたら、いすに腰掛けましょう。ただし、背もたれにはよりかからず、背筋をまっすぐ伸ばします。こうすれば意識を鋭敏に保てるからです。これ以外にも、自分で気に入っている姿勢があれば、その姿勢でおこなってもかまいません。
 身体がリラックスしているか、確認しましょう。目を閉じます。二、三度深呼吸します。下腹部まで、しっかりと息を吸いこみます。呼吸のたびに、おなかがふくらんだり、縮んだりするのを意識しましょう。次にインナーボディ全体のエネルギーを意識します。インナーボディについて考えるのではなく、ただそれを感じるのです。こうすると、思考活動は止まり、「無心状態」になります。 「視覚化が役に立つのでは?」と思うなら、「呼吸を利用してインナーボディとひとつになるエクササイズ」の節(第6章参照)でご説明したように、「光の視覚化」をするのもいいでしょう。ただし、インナーボディがひとつのエネルギー場に感じられた時点で、イメージはすべて頭から追い払い、感覚だけに意識を集中させましょう。身体の物質的なイメージがあるなら、これも同様に消し去ってください。 すると、あなたの中には、万物に広がっている「在る」という感覚だけが残ります。自分のからだと外界のあいだには境界線が存在しないように感じられます。そうしたら、その感覚を強められるよう、さらに意識を集中させます。「在る」という感覚と、ひとつになるのです。自分と自分のからだのあいだに「観察する側」と「観察される側」という区別がなくなるくらい、感覚とひとつに溶け合いましょう。内側と外側という区別も、この段階では消えてしまい、「インナーボディ」という感覚さえ、なくなってしまいます。からだの奥へ、奥へとはいりこむことによって、からだを超越したのです。感覚が心地良いと感じられるかぎり、この「大いなる存在」の空間にとどまりましょう。 心ゆくまで味わったら、物質的な肉体、呼吸、身体の感覚と、順次意識してゆき、それから目を開けます。周囲を数分間見渡しながらも、インナーボディを意識します。すぐには思考活動をしないでください。
 このように、かたちにしばられない空間にはいりこむのは、とても開放感があるものです。このエクササイズをすると、かたちのアイデンティティから自由になれます。 わたしたちがはいった次元は、万物が分裂して、個別化する前の世界なのです。この次元を「目に見えない世界」「万物の源」「大いなる存在」と言いかえることもできます。 それは沈黙と平和の次元であると同時に、喜びと力強い生命力の次元なのです。「いまに在る」人の肉体は、いくらか透明になり、純粋な意識である光に近づきます。さらに、その光が「ほんとうの自分」をつくっている要素そのものであることにも気づくでしょう。 ・・・(第7章)
... エックハルト・トール 『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』 より

【目次】
序章 この本が生まれたいきさつ
第1章 思考は「ほんとうの自分」ではありません
第2章 「いまに在る」と、人生の苦しみは消える
第3章 「いまに在る」生き方がさとりのカギ
第4章 思考はいつも「いま」から逃げようとしている
第5章 「いまに在る」ってどんなこと?
第6章 うちなるからだ「インナーボディ」
第7章 「目に見えない世界」の入口
第8章 さとりに目覚めた人間関係をきずこう
第9章 「心の平安」は幸福と不幸を超えたところにある
第10章 「手放すこと」って、どういうこと?

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世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え  ←[Amazon レビュー]


エックハルト・トール(徳間書店)
あさりみちこ(訳)
★★★★★ 【初級】
価格:¥1,575
 『 Stillness Speaks: Whispers of Now 』は2003年に出版された、エックハルト・トール2冊目の本です。邦訳『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』は2006年の出版。

【抜き書きノート】 ... エックハルト・トール『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』より
02 思考の夢から目覚めるということ
でもこれからは、かわりにこんな方法を試してみてはいかがでしょう。退屈と欲求不満の状態にとどまり、それが「どんなふうに感じられるか」と観察してみるのです。意識を感覚に注いでみると、突如として、感覚の周囲にいくらかの「空間」と「静止状態」を感じはじめます。最初のうちは、ごくわずかかもしれませんが、内なる空間の感覚が拡大するにつれて、退屈という感覚は、強度においても、重要性においても、弱まりはじめます。つまり、退屈という感覚でさえ、「自分が誰であり」、「自分が誰でないのか」を教えてくれる「道標(みちしるべ)」に利用することができるのです。 ・・・(Chapter 02)
06 「受け入れること」「手放すこと」
完全に「いま、この瞬間」を受け入れると、あるいは、現状に逆らうのをやめると、考えなくてはならない、という強迫観念は次第にうすれはじめ、意識が鋭敏な、静止状態にとって代わられます。そのときの意識は完全に目覚めていると同時に、「いま、この瞬間」に対して、なんのレッテルも貼っていません。この内なる無抵抗の状態は、なにものからも制約されない意識のとびらを開きます。それは、人間の頭脳とは比較にならないほど、はるかに偉大です。この偉大な叡智は、あなたを通して自らを表現することによって、あなたを内面、外面の両方からサポートするのです。これが、心の抵抗を手放したとたん、状況が好転するという奇跡が、往々にして起こる理由です。 ・・・(Chapter 06)
... エックハルト・トール『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』より

【目次】
01 なぜ「心の静寂」が大切か?
02 思考の夢から目覚めるということ
03 「本当のわたし」と「エゴのわたし」
04 「いま、この瞬間」の意味
05 「本当の自分」を見つける
06 「受け入れること」「手放すこと」― 心の平安へといたる道
07 自然から「在る」術を学ぶ
08 人間関係を根底から変える方法
09 「死」を超越したところ、「不死」がある
10 さとりに苦しみは必要か?

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